1. TOP
  2. わが町の歴史・史跡

平山太郎墓所

rekisi_11.jpg啓次郎の学友、共にアメリカに留学
幼くして児玉平格に学び、16才で藩命によ り島津啓次郎らと共に鹿児島重野塾に遊学しました。1869年(明治2年)、島津又之進(忠亮)と共にアメリカに留学し、明治6年帰国。1890年(明治 23年)、第五高等学校(現熊本大学)校長となりましたが、1892年6月在任中に43歳で死去しました。墓碑銘は重野塾長が書いています。

児玉平格墓所

rekisi_10.jpg藩主忠寛公、啓次郎の父の先生
佐土原藩の儒学者。江戸で山口菅山、御牧直斉に 師事しました。藩校学習館の学頭からのちに島津忠寛公の御用人兼教主になりました。学者としてまた教育者として藩士から尊敬され、佐土原藩文教の振興に大 いに貢献しました。藩主に勤王の思想を勧めたのも平格といわれています。(墓地は9、居宅跡は10)

前牟田墓地

rekisi_09.jpg啓次郎ゆかりの人の墓地
児玉平格(葬式の時には、竹ヶ島の自宅から人の行列が連なったといいます)のお墓があります。周辺に島津家関連の墓があります。

川南小学跡

rekisi_08.jpg広瀬学習館跡地
1869年(明治2年)、佐土原転城と共に石崎側南岸(現在の 熊牟田墓地あたり)に佐土原学習館を移転し、同5年に川南小学と名前を改めました。1877年(明治10年)、西南戦争の時には銃器製作所として蔵書の大 半は弾薬製造に使われ、校舎は兵火のため焼失してしまいました。

護国神社

rekisi_07.jpg啓次郎をしのぶ記念墓標
島津啓次郎と共に佐土原隊として西南戦争に参加したのは、1114名にのぼり戦死者は106名にもなってしまいました。佐土原藩は啓次郎をはじめとし、多くの若い有能な人材を失ってしまいました。ここには啓次郎をしのぶ記念墓標があります。

島津御殿跡

rekisi_06.jpg藩主島津忠寛公の留守宅
1871年(明治4年)の廃藩置県により藩主島津忠寛公は東京へ向かわれ、その留守宅として建造されました。第11代島津忠亮伯は明治42年、この邸宅で亡くなられました。今も残る2個の磁石は、当時の正門のものです。

旧町田養家付近

rekisi_05.jpgアメリカからの帰国あいさつ第一声の地
島津啓次郎3歳の時、寺社奉行町田宗七 郎の養子となり佐土原で育ちました。町田英五郎著「藩譜補修草稿」に「啓次郎七、八歳のころは毎夜邸後の山中にある氏神の祠堂に至り神燈を点火し再び往い て之を滅し来たらしむ」とあり、厳しく育てられた様子が伺えます。1873年(明治6年)16歳の時、アメリカ遊学中に修学資格の変更で元の島津家に戻り ました。

瓢箪島(ひょうたんじま)

rekisi_04.jpg西郷札印刷所跡地
1877年(明治10年)に起こった西南戦争で政府軍に敗れ た薩摩軍は退路を宮崎に求めました。物資を調達するお金がなかったため、自分たちで印刷をしました。これをのちに西郷札といいます。しかし他の貨幣や金銀 などと交換ができないため、西郷軍が去ってしまうとただの紙切れになってしまい、地元に大損害を与えました。西郷札製造所があったところが、現在の県埋蔵 文化センターあたりで、川の形状から当時は瓢箪島と呼ばれていました。

広瀬神社

rekisi_03.jpg佐土原藩心のよりどころ
1550年に島津忠将公が、佐土原城内に島津の守り神として大明神を建てました。1870年(明治3年)に広瀬転城と共に、守護神の稲荷、諏訪、天下の三大明神社も現在の郵便局の場所に移しました。つまり佐土原藩の心を広瀬に移したのです。
島津啓次郎は、西南戦争出陣の際にはここで祈願したといわれています。その後石崎神社、八坂神社、千代稲荷も合わせてまつり、昭和49年に広瀬神社として現在地へ移転、改築しました。

広瀬小学校

rekisi_02.jpg啓次郎の恩師が初代校長
1869年(明治2年)佐土原城を現在の広瀬小学校・広瀬中学校域に移し広瀬城とし、一時は佐土原県としました。しかし1871年(明治4年)の廃藩置県により未完成のまま、築城は中止されました。